となりの車線はなぜスイスイ進むのか?を読みました。
400ページ以上あるボリュームの本で、11月からちびちび読んでいて読了するのに時間がかかっちゃいました。時間かかりすぎて最初の方もうあんまり覚えてないし。
交通社会の様々な社会的問題を、実際の数値データを元に科学的にアプローチした本です。
表題の「となりの車線はなぜスイスイ?」という心理的に陥りやすいジレンマもそうですが、それだけではなく
なぜ渋滞は起こるのか、なぜ事故はなくならないのかといった交通社会全般における問題をとりあげています。
かなり読み応えのある1冊です。細かい数字もたくさん出てきますので、読むのに時間かかります。
ちょっとレベルの高い本であり読む精神力も必要だったので、私は何度も読むのをあきらめそうになりました。
「交通というものは、物理的、機械的であるのと同じほど、感情的問題でもある。」
人の問題の方が、機会である自動車よりも御しやすいのである。
「時間が経てば技術的問題はより自動的に対処できるようになるが、人間をめぐる問題は、どんどん超現実的になっていく」
本書が扱うのは、この交通をめぐる「超現実的」な側面である。
赤信号を無視したり、コーナーを曲がるスピードが速すぎるドライバーについては、以下のように述べています。
たいていの場合、問題は運転技術そのもの-コーナリング能力や障害物回避能力など-ではなく、自信過剰から来る失敗なのだ。
渋滞における法則については、ある臨界点から道路のパフォーマンスは劇的に悪くなるそうです。
「5つのボールを30センチずつ離して置き、1つを打っても他の4つに羽影響しない。だが、5つをぎっしり詰めて並べ、いちばん橋の1つを打つと、反対側のボールが飛び出していく。道路の限界通行量に近づくにつれて、ちょっとしたことが多くの車に影響するようになる」
以下の比喩について、
20世紀初頭、47人の男たちが、北米大陸の最高峰アラスカのマッキンリー山に登ろうとしていた。彼らは比較的粗末な装備を持ち、また、もしものことが起きたときに救助されるチャンスは薄かったにもかかわらず、全員が生還した。20世紀末になって、装備はハイテク化し、いざというときのヘリコプター救助が広く普及したにもかかわらず、この山では10年に数十人は遭難死している。ここには何らかの慣れが働いている。
同じことが、エアバッグやABSなどのハイテク化された車を運転する現代人にもあてはまるといいます。
いまも走行距離あたり死亡事故数が減る割合が、さまざまな安全装備が導入されるはるか昔の20世紀前半当時と同じであることの、理由の一端であるかもしれない。
自動車はかつてなく安全になっている。しかし、交通死傷者はなかなか減少することはない。みんなそれが分かっていながら、分からないふりをして運転している。
訳者の言葉も印象的でした。
自動車産業と道路建設は、それぞれ成長の牽引車や国富の再配分手段として、車の両軸のように働き、民主主義社会の発展に大きく寄与した。だが今では、制度疲労を起こしている。これまで福音となってきた従前型の道路行政・自動車中心社会は、今や成長の足かせになっているのではないか。自ら自動車を利用しながらこう言うのは偽善だが、体重数十キロの人間が2トン近い鉄の塊を乗り回し出発地と目的地に必ず駐車場が必要で、ほとんどの時間は使われていないなどという無茶が、なぜ成り立つのか?受益者がその負担の多くを外部性の形で社会全体に及ぼしているからだ。この無駄を一部でも減らせれば現在の社会経済的諸問題の多くは、大幅に改善できる。私たちは交通を、もっと真剣に考えるべきだ。
たまたま関連する記事がここにもあります。
池田信夫 blog - トヨタの長すぎた栄光
トヨタは「環境にやさしい」自動車を宣伝しているが、環境に一番やさしいのは不要な自家用車を減らすことだ。交通事故を減らすもっとも効果的な方法も、車を減らすことである。そんなことは自明だが、車に依存して道路を建設している政治家も、交通警察官の雇用を維持している警察もそれはいわない。
当たり前のように利用している車も、考え直す時期が来ているのかも知れませんね。
若者の車離れが言われていますが、どういう理由であれ車全盛時代の終わりを予兆しているのかも。